歌って何? 中森明菜が歌う、松田聖子の『瑠璃色の地球』を聴きながら。

『瑠璃色の地球』は作詞・松本隆、作曲・平井夏美による1986年の楽曲です。いい曲ですね、松田聖子のたくさんの歌の中でも人気があるのもうなずけます。

独特の低音を効かせて歌い上げる中森明菜の曲は多いですが、この曲はともすれば伴奏にかき消されそうな位の声でささやくように歌っていますね。
でもよく聴いてみると、声は確かに小さいですがその小さな声の中に秘めた力強さを感じます。多分、肺一杯に吸い込んだ息をノドを絞りながら腹筋で力をこめて送り出しているいるからでしょうか、素人の想像ですが。

 中森明菜 「瑠璃色の地球」 2


前の『秋桜』の記事で、「カバー曲を歌うのは気持ちが楽」というような事を書きましたが、彼女のインタビュー動画などを見ると事実は逆で、単なるコピーではなく中森明菜の色を出さなければならないので、オリジナル曲とは違うプレッシャーが何倍もあるとの事でした。
それをはねのけ、ささやくように歌うことを究極まで推し進めた、このミニマルだけど力強い歌唱に僕は感動したのでした。

歌は人を感動させます。

歌は心のご飯です。感動は心が美味しいご飯をお腹いっぱい食べて喜んでいるのです。すごくベタで恥ずかしい位の言い方ですが。
心が感情と言葉で出来ているのなら、歌は感情と言葉の栄養です。
流行歌、歌謡曲に限らず音楽には「惚れた腫れた」の曲が多い。それは男女それぞれにとってお互いが心や体のご飯、栄養だという事ですね、言うまでもなく。人はそれを性愛と呼びます、エロスとか。

ネットで有名な、歌謡曲ブログ『まこりんのわがままなご意見』から僕はいつも気付きをもらい刺激を受けています。そこにこうあります。

「瑠璃色の地球」は松田聖子が人類愛・地球愛といった松本隆の意図通りに歌っているのに対して明菜は個人的な恋愛の歌に歌い替えている。
・・・
明菜のデビュー当時から一貫した恋愛実存主義的な側面が味わえる作品になっている。

中森明菜は、人類愛や地球愛は自分が生きていくための栄養ではなく、あくまで自分の生きる栄養は恋愛、異性関係だと主張したがっている。瑠璃色の地球を私とあなたの関係の背景に押しやっている。
これが中森明菜の個性です。それは禁じられた愛から平凡な結婚願望までと振り幅が広く、中森明菜という虚実入り乱れた歌手の大きな魅力です。
声で聴かせる松田聖子と歌い方で聴かせる中森明菜の違いがこういう所にも現れているのでしょう。中森明菜の歌を聴いて、いいなあと思う人は無意識の内に彼女の実人生に強く結びついている歌唱に反応している

結局人は食べるご飯と、歌や音楽のようなご飯と、恋愛・異性・パートナーというご飯から栄養をもらっているのですね、直接的・間接的に。時として栄養が毒になる事も含めて。そして仕事をしてお金を稼いで、毎日が過ぎて行く。

中森明菜は歌手をそんなに長くやるつもりはなく、それよりも結婚願望が強かったそうです。歌という栄養よりも伴侶・パートナーという栄養で人生を作りたかった。
生い立ちがそうさせたのかも知れないし、芸能界の水が合わなかったのかも知れない。
でもアイドルではあるけれど歌唱が格段に優れていた彼女の運命は、三浦友和との結婚を機に潔くマイクを置いて芸能界を去った山口百恵とは全く別の方向に舵を切られて行きました。ファンの誰もが認めるだろう分かれ目は、1989年の自殺未遂騒動です。1982年のデビューから七年目の出来事でした。

七年というのは『七年目の浮気』という映画(古い!)があるように、大きな出来事が起こるサイクルです。浮気だって事の前日に突然とムラムラっとくるのではなく、何年も前から少しずつその欲望が大きくなって抑えきれなくなったのが七年目という事です。事件・騒動は全て生活習慣病的ですね。

中森明菜という歌手は、そして中森明菜という一人の人間はこの出来事を契機に、ホント様々なトラブルに巻き込まれ、歌を歌う事さえままならない道を歩む事になります。なぜそうなったのかを僕は知る由もありません。
ただ、トラブルは僕達と全く同じ様に、家族との関係、異性との関係、仕事上の関係という、どれも人との関係です。僕が知る限りでは歌そのものには、後ろ向きで出口のない様な悩みやトラブルは見られません。

僕はここで中森明菜の半生のドキュメンタリーを書きたいのではもちろんなく、2017年のディナー・ショー以後公に姿を見せない彼女はまだまだやれると思って、その事を書きたいのです。大きなお世話だし、何を分かっているんだと言われたら返す言葉はないです。僕はコアな中森明菜ファンではありませんでした。でも何かが僕にこれを書かせるので、続けたいと思います。

僕が思うに、人間関係の問題は言葉の問題です。言葉は便利ですが魔物でもある。言葉は意味を持っている。でもその意味は同じ言葉でも文脈やシチュエーションで違ってくる。
「お前なんか嫌いだ」と言われて、本当は好きなんじゃないかと思い悩むのはよくある事です。でも度が過ぎると、好き・嫌いの意味の問題が嫌いだと思いたくないという信じる・信じないの問題にすり替わってしまう。ストーカーの第一歩になりかねない。
「前向きに善処いたします」という国会答弁の決まり文句をその通り受け取る人はいません。それはその場しのぎのためだけの言葉だという事を皆んな知っているからですね。ただ、こういうタイプの言葉は気が付かない内に僕たちの生気を奪っている事をほとんどの人は言わない。

「お金貸してくれ」
「前にも貸したよ」
「俺を愛していないのか?」
お金を貸す、貸さないが愛の問題にすり替わる。この言葉は挑発しています。「俺を愛していないのか?」は無意識的に問題を起こそうとしてそう言っている、そう言った人が一瞬だけ気が済む事だけのために。けれど気が付いた時は、売り言葉に買い言葉でもう遅い。そしてこういう言葉は、親しい間柄ほど容赦ない。どんなに人間が出来ていても言葉をコントロールするのは簡単ではない。そして、二日酔いみたいに同じことをまた繰り返す。
こう書いているだけで疲れた気がします。

理由もなしに怒られたり小言を言われる事もある。その人にとってはガス抜きだったり単に誰かに何かを喋りたかっただけなのに、言われた方はたまったものじゃない、消耗します。僕の奥さんもたまにこうなるし、逆に僕がなる時もある。そんな自分に気まずくなりますが、もっとエスカレートした場合を考えるとゾッとします。
また普段は、「これ片ずけて」「オッケー」で済むのにムシの居所が悪いと「これ片ずけて」に「うるさいなあ」と返してしまう。「うるさいなあ」が「うるせえなあ」だったらより悪意がある。

言葉は思っている事を上手く言えなかったり、逆に思ってもいないことを言ってしまうという、便利だけど扱いにくい道具なのです。相手が言われたくないからそれを言いたくなるというのもある。
そして言葉が段々分からなくなって、つい、「わたしは本当は何を言いたいんだろう?」と考える。本当に言いたい事なんて相手の受け取り方で色々変わるのに、「本当」を探し始めて堂々巡りに陥ってしまう。
自分自身との会話は、ドツボにはまると病気になる事もある。だから、自分自身との関係が一番難しい。

自分との関係を含めて、人とどう付き合うかは、ほとんど言葉とどう付き合うかの問題です。だから何か心が疲れているなあと思ったら、それは言葉に、言葉の意味に疲れているのだと思います。
余談ですが、言葉の意味に敏感な人は、中身のない世間話やしょーもないバカ話が苦手ですね。言葉の意味が近過ぎて、無内容などうでもいい話が出来ないのです。

さてここが心のご飯、歌の出番です。歌の栄養は、いい言葉や正しい意味を作ってくれる訳ではありません。逆です。それは言葉から意味を剥がしてくれるのです。歌が直接に人間関係を修復してはくれませんが、言葉の行き過ぎた意味から僕達を遠ざけてくれます。
すごく端折って言えば、考えてもしょうがない事を考えなくてもいいようにしてくれるのです。つまり行き過ぎた言葉をリセットしてくれる。もし上手く行けば、それだけでなく僕達の未知の力を引き出してくれる。
栄養とは言え、いい歌・いい音楽というのは得体の知れないもの、不意に殴られる様なものです。そして、僕達はいつもより強く殴られる事を求めている。危ないなあ、笑。

歌は言葉に音程やリズム、抑揚を付けたものです。試しに、「あいうえお」に適当にメロディーを付けて歌ってみましょう。不思議なことに、「あいうえお」が「あいうえお」でなくなってしまいます。「あいうえお」を「あいうえお ♪」と書いても何か違うものになりますね。
これが歌の、心の栄養の具体的な現象です。

『瑠璃色の地球』の出だしの明菜さんの歌声を聴いた瞬間に僕たちは何処かに持って行かれてしまう。そこは言葉の意味が届かない遠い遠い所です。そしてファンの人皆んながよく知っているようにその場所は自分が知っていた所よりもっともっと遠くです。
心の疲れが取れるどころか、今まで出来なかった事ができるようになったりする所です。
気が付いたら、ニューヨークのコロナのストレスも何のその、僕はこんなに中森明菜についての文を書いている。ちょっと前までは想像もしていませんでした。これが中森明菜の歌です。だから自然と人々は彼女を<歌姫>と呼ぶようになったのだと思います。

人生色々あるけれど、歌の観客である僕たちは中森明菜の歌を聴けばいい。じゃあ歌う事が仕事の中森明菜本人は、人生色々ある時どうすればいいかと言えば、好きな歌手の歌を聴くのもいいですがやっぱり自分の歌を歌いそれを聴くのが一番のご飯です。
多分この事は本人が一番良く知っている。自分のご飯がすごーく美味しいのを!

YouTubeには、元々体が丈夫ではない明菜さんを気遣うコメントと、人生のアップダウンが激しい明菜さんの幸せを願うコメントがとても沢山あります。
美味しいものを一杯食べて体をゆっくりと休養させて体力とエネルギーが戻って来たらまた歌い始めればいいのです。
と、僕も皆んなと同じ様に考えていました。でもそれは逆なんじゃないかと最近は思い始めています。元気が出ないのは歌い足りないからなのではないか? 中森明菜は歌手です。歌ってなんぼです。歌って、その栄養で自分も元気になる、そういうサイクルが似合っている。ファンのために歌う、自分のためにもっと歌う。

別にコンサートやレコーディングだけが歌うことではないです。ひょっとしたら明菜さんは毎日自宅で、日課として1日1時間位、余計な事は何も考えずにただルーティーン的に自分が歌って来た歌を次から次へと歌っているかも知れない。そうだったらうれしい。
歌う事だけが歌を進化させ、歌う事だけが歌を新しくする。そして歌う事だけが歌う人を何処かへ<導いてくれる>と思います。

話はそれますが皆んな犬や猫が好きですよね。彼らは喋らないで可愛い顔でただワンワンと吠えたり、ミャーオーと鳴くだけです。それがいいんです、歌ですね。

以上、歌って歌って嫌になるくらい歌う栄養が、体も丈夫にするし仕事も人間関係も良好にするのだ、という「逆サイクル」がテーマのエッセイでした!

最後に、妄想の中森明菜ラテンカバーです。第3曲目は、Eliades Ochoaの『Ella sì va』(彼女は行く)です。
彼はライ・クーダーがキューバで出会ったミュージシャンと結成した『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』というバンドのメンバーです。同名の映画やCDで知っている人も多いかなと思います。
1999年に彼らがワールドツアーの一環でNYに来た時、僕はカーネギーホールの最後列の席で体を揺らしていたのでした。
ではこの曲を素晴らしいダンスと共にどうぞ。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。

 
画像2