「お金と歌」 ・・・ 中森明菜が歌う、中島みゆきの『悪女』を聴きながら。

この『悪女』は2009年7月に発売された『フォークソング2〜歌姫哀翔歌』に収録されています。ちょうど11年前ですね。本家、中島みゆきの歌唱もいいですがこの『悪女』の中森明菜の歌唱はスゴイですね。
まず背もたれの付いた椅子を前後逆にしてそれにまたがる様にして座っている。もちろん両脚は開かれている。全盛期の大ホール公演ではない小さいスペースである事を逆手に取った見事な姿だと思います。

もちろん中島みゆきの書いた曲もスゴイです。マリコの部屋で〜♪、の出だしがもう何だか分かりません。いきなり固有名詞です。ミュージシャンはこういう技をもっと盗んだほうがいい。僕はまだ、山田が~♪、で始まる曲を聴いたことがありません。
また当時、坂本龍一がラジオから流れて来る『悪女』のメロディーに思わず足を止めたという噂が本当のように語られていました。僕は本当だと思います。歌詞もメロディーも何かを秘めています。

コメントにもありますが、生ギターのストロークがメインのアレンジもすごくいい。そして2番に入ってからの手拍子がとても気持ちがいいです。スタッフと中森明菜の楽曲へのこだわりが伝わって来ます。

中森明菜 悪女2 png

で、中森明菜の歌唱ですが、何かぶっきら棒で突き放す感じがあってとてもいい。ボブ・ディランみたいにも聴こえる。その訳は歌詞の語尾にトレード・マークのビブラートがあんまりかかってないからなんですね。音符の並びがそういう作りなのでしょうか、それとも意識的にそう歌っているのか。
とにかくビブラートなしも中々いいです。今までビブラートで魅せていた曲をビブラートを控えた歌い方で聴いてみたいです。

前回のエントリーにも書きましたが、歌は心の栄養とは言え、いい歌というのは得体の知れないもの、不意に殴られる様なものです。でも、僕達はいつもより強く殴られる事を求めている、マゾっけたっぷりなのです。自分は何もしないで、とにかく極力受け身になって歌に殴られたい。
明菜ちゃんが明菜さんになり、ダウンタウンの番組で松本人志は彼女を「明菜様」と呼んでいました。そしてとうとう歌姫になった。まさに、女王様への道をまっしぐらです。

中森明菜のファン思いの姿勢は周囲の誰もが認めるところだと思います。
そんな事は出来ないのに、自分が歌うことを楽しめない位、ファン全員の願いを叶えたいと思ってしまう。NHKの『SONGS』で彼女は自分をそのように語っていました。ファン一人一人のためにいい歌を歌いたという願望がすごく強いです。それは僕達のいい歌を聴きたい願望と対になっていて、歌でボコボコにやられたい僕達に手を貸して助けてくれる存在です。僕達の女王様は優しいのです。

女王様は優しいけれどそれをタダではやってくれません。タダに見えるテレビやYouTubeは広告です。どうして歌は純粋にタダではないのでしょう? 歌手も仕事だから、フムフム。資本主義のせい、確かに。

今の世の中お金が無いと何もやって行けない様になっている。何よりもご飯が食べられない、服も買えないし家にも住めない。僕達はお金のために生きている様なものです。お金がすべての悪の根源の様に考えてもおかしくないけれど、それはお金の片側の姿に過ぎない。お金は働いて稼ぎます。で稼いだお金は使わなければしょうがない。僕の考えでは、お金を稼ぐのは大変だけれどそれを使うという楽しみもあるのです。

昆虫も動物も生きて行くために日々動き回っている、植物さえも。それは彼らの労働です。僕達の場合この労働にお金というものが絡んで来ますが、生きるために動き回る事に変わりはないです。動物達は動き回る事が直接生きる事に繋がりますが、人間は動き回る事がすぐにはご飯にならない。面倒な事に、お金を持ってラーメン屋さんに行かなければならない。
まるでお金を払う事で働いた事を確かめているみたいです。確かにお金は人生を縛ってはいますがそれだけではない。労働がキツイだけのものではないのと同じです。労働で稼いだお金で自分の人生を作れるなら、お金を使う楽しさが人生の楽しみに加わります。

それはどういう事かというと、稼いだお金で何かを買って自分の人生を作っている時、結局僕達は昆虫や動物と同じ事をしているのです。お金が中間に入っていますがこの時労働とお金は同じものになっています。
つまりこの時僕達は昆虫です。労働はキツイけれど自分の人生のためなら、それを呪ったりはしないでしょう。むしろ楽しいと感じる事さえあるかも知れない。
お金が色々な不幸の元になる事もあれば、当然お金を使うのが楽しい時もあるのだと思います。

お金が諸悪の根源に感じられるのは、お金の量が問題になっている時です。お金が足りないと自分の人生を作るどころの話ではないですから。
そうならないように余裕があったら、僕達は貯金をしたり投資をしたりしています。つまりお金には使う楽しみと同時に増やす楽しみもあります。

ただお金を増やす楽しみは、万が一のためとか老後のためという使う事を想定した場合だけではありません。お金がお金を生んでただ増えて行くのが楽しいという場合もあります。
言うまでもなくこれはとても厄介な事です。お金をそのお金を増やすためだけに使う事が諸悪の根源の始まりになってしまうのです。なぜならこの行為は誰の人生も作っていないからです。

そういう訳でもし歌がタダだったら、僕達はCDを買う楽しみやコンサートのチケットを買う楽しみを味わえない。もっとストレートに言えばお金を使う楽しみを味わえない。それは労働の楽しみを味わえない事と一緒です。お金は僕達を時には苦しめますが、それだけではない。お金は労働と歌を繋いでくれるのです。
という事はひょっとしたら、僕達は歌に殴られるために働いているのでしょうか?! そうとも言えるでしょう、笑。

CDやコンサートのチケットを買うのは財布が痛い。でもその痛さは労働の楽しさの証しでもあるのです。財布の痛みも喜びに変わるのです。だから、僕達にものすごく買いたいと思わせるCDをいつもリリースして「買ってね」と耳許でささやく明菜様はどこまでも僕達に優しい存在なのです。

このところ僕は時間があればYouTubeの明菜さんの歌を古いのから新しいのまでランダムに聴きまくっています。で、彼女が出したシングルはもちろん、出したアルバムのほとんどの曲をYouTubeで聴くことが出来るのにはホントにビックリです。
その幅はデビューの1982年から2017年までのちょうど35年間です。この人生の半分位の間、彼女には公私に渡って色々な事があった訳ですが、その年代ごとに声も変わり歌い方も変わって行きました。

もちろんその時々で表現したいテーマも変化しているのも見て取れます。でも気付いたのですが全く変わっていないものがあったのでした。
それはどの歌も非常に丁寧に歌っているという事です。一つ一つの歌を愛おしむ様に歌っていると言ってもいいです。いや、一つ一つの歌をではなく一音一音をですね。
僕にはそれが歳を重ねる程に強くなっているように感じられます。何て言うか、曲がいいとか歌詞がいいとか編曲がいいとかという次元ではなくて、その変わらない態度に僕はもう一度動かされたのです。これは忘れない内に書いておきたいと思います。機が来たらこの事をもっと掘り下げてみたいです。

ここNYではニュースでコロナのワクチンの進み具合を聞く機会が増えて来ました。早ければ年明け早々でしょうか? もう旅行したくてしょうがないないのですが。

さて中森明菜ラテンカバーシリーズの第4弾目は、キューバのレジェンド、Los Van Vanの登場です。曲は『Descarga Los Van Van』のインストルメンタル・バージョンで、あまりヴォーカルはありませんが、サムエル・フォルメルのドラムとティンバル(Princeと一緒にやっていたSheila Eが叩いていたやつです)が超聴きどころです。うねりまくっています。
グルーヴに身を任せ身体を揺らしながら楽しそうに歌う明菜さんが目に浮かんで来ます。それはLos Van Vanの演奏という波と戯れる明菜さんというサーファーのイメージですね。

今回も最後まで読んでいただいてありがとうございました!

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歌って何? 中森明菜が歌う、松田聖子の『瑠璃色の地球』を聴きながら。

『瑠璃色の地球』は作詞・松本隆、作曲・平井夏美による1986年の楽曲です。いい曲ですね、松田聖子のたくさんの歌の中でも人気があるのもうなずけます。

独特の低音を効かせて歌い上げる中森明菜の曲は多いですが、この曲はともすれば伴奏にかき消されそうな位の声でささやくように歌っていますね。
でもよく聴いてみると、声は確かに小さいですがその小さな声の中に秘めた力強さを感じます。多分、肺一杯に吸い込んだ息をノドを絞りながら腹筋で力をこめて送り出しているいるからでしょうか、素人の想像ですが。

 中森明菜 「瑠璃色の地球」 2


前の『秋桜』の記事で、「カバー曲を歌うのは気持ちが楽」というような事を書きましたが、彼女のインタビュー動画などを見ると事実は逆で、単なるコピーではなく中森明菜の色を出さなければならないので、オリジナル曲とは違うプレッシャーが何倍もあるとの事でした。
それをはねのけ、ささやくように歌うことを究極まで推し進めた、このミニマルだけど力強い歌唱に僕は感動したのでした。

歌は人を感動させます。

歌は心のご飯です。感動は心が美味しいご飯をお腹いっぱい食べて喜んでいるのです。すごくベタで恥ずかしい位の言い方ですが。
心が感情と言葉で出来ているのなら、歌は感情と言葉の栄養です。
流行歌、歌謡曲に限らず音楽には「惚れた腫れた」の曲が多い。それは男女それぞれにとってお互いが心や体のご飯、栄養だという事ですね、言うまでもなく。人はそれを性愛と呼びます、エロスとか。

ネットで有名な、歌謡曲ブログ『まこりんのわがままなご意見』から僕はいつも気付きをもらい刺激を受けています。そこにこうあります。

「瑠璃色の地球」は松田聖子が人類愛・地球愛といった松本隆の意図通りに歌っているのに対して明菜は個人的な恋愛の歌に歌い替えている。
・・・
明菜のデビュー当時から一貫した恋愛実存主義的な側面が味わえる作品になっている。

中森明菜は、人類愛や地球愛は自分が生きていくための栄養ではなく、あくまで自分の生きる栄養は恋愛、異性関係だと主張したがっている。瑠璃色の地球を私とあなたの関係の背景に押しやっている。
これが中森明菜の個性です。それは禁じられた愛から平凡な結婚願望までと振り幅が広く、中森明菜という虚実入り乱れた歌手の大きな魅力です。
声で聴かせる松田聖子と歌い方で聴かせる中森明菜の違いがこういう所にも現れているのでしょう。中森明菜の歌を聴いて、いいなあと思う人は無意識の内に彼女の実人生に強く結びついている歌唱に反応している

結局人は食べるご飯と、歌や音楽のようなご飯と、恋愛・異性・パートナーというご飯から栄養をもらっているのですね、直接的・間接的に。時として栄養が毒になる事も含めて。そして仕事をしてお金を稼いで、毎日が過ぎて行く。

中森明菜は歌手をそんなに長くやるつもりはなく、それよりも結婚願望が強かったそうです。歌という栄養よりも伴侶・パートナーという栄養で人生を作りたかった。
生い立ちがそうさせたのかも知れないし、芸能界の水が合わなかったのかも知れない。
でもアイドルではあるけれど歌唱が格段に優れていた彼女の運命は、三浦友和との結婚を機に潔くマイクを置いて芸能界を去った山口百恵とは全く別の方向に舵を切られて行きました。ファンの誰もが認めるだろう分かれ目は、1989年の自殺未遂騒動です。1982年のデビューから七年目の出来事でした。

七年というのは『七年目の浮気』という映画(古い!)があるように、大きな出来事が起こるサイクルです。浮気だって事の前日に突然とムラムラっとくるのではなく、何年も前から少しずつその欲望が大きくなって抑えきれなくなったのが七年目という事です。事件・騒動は全て生活習慣病的ですね。

中森明菜という歌手は、そして中森明菜という一人の人間はこの出来事を契機に、ホント様々なトラブルに巻き込まれ、歌を歌う事さえままならない道を歩む事になります。なぜそうなったのかを僕は知る由もありません。
ただ、トラブルは僕達と全く同じ様に、家族との関係、異性との関係、仕事上の関係という、どれも人との関係です。僕が知る限りでは歌そのものには、後ろ向きで出口のない様な悩みやトラブルは見られません。

僕はここで中森明菜の半生のドキュメンタリーを書きたいのではもちろんなく、2017年のディナー・ショー以後公に姿を見せない彼女はまだまだやれると思って、その事を書きたいのです。大きなお世話だし、何を分かっているんだと言われたら返す言葉はないです。僕はコアな中森明菜ファンではありませんでした。でも何かが僕にこれを書かせるので、続けたいと思います。

僕が思うに、人間関係の問題は言葉の問題です。言葉は便利ですが魔物でもある。言葉は意味を持っている。でもその意味は同じ言葉でも文脈やシチュエーションで違ってくる。
「お前なんか嫌いだ」と言われて、本当は好きなんじゃないかと思い悩むのはよくある事です。でも度が過ぎると、好き・嫌いの意味の問題が嫌いだと思いたくないという信じる・信じないの問題にすり替わってしまう。ストーカーの第一歩になりかねない。
「前向きに善処いたします」という国会答弁の決まり文句をその通り受け取る人はいません。それはその場しのぎのためだけの言葉だという事を皆んな知っているからですね。ただ、こういうタイプの言葉は気が付かない内に僕たちの生気を奪っている事をほとんどの人は言わない。

「お金貸してくれ」
「前にも貸したよ」
「俺を愛していないのか?」
お金を貸す、貸さないが愛の問題にすり替わる。この言葉は挑発しています。「俺を愛していないのか?」は無意識的に問題を起こそうとしてそう言っている、そう言った人が一瞬だけ気が済む事だけのために。けれど気が付いた時は、売り言葉に買い言葉でもう遅い。そしてこういう言葉は、親しい間柄ほど容赦ない。どんなに人間が出来ていても言葉をコントロールするのは簡単ではない。そして、二日酔いみたいに同じことをまた繰り返す。
こう書いているだけで疲れた気がします。

理由もなしに怒られたり小言を言われる事もある。その人にとってはガス抜きだったり単に誰かに何かを喋りたかっただけなのに、言われた方はたまったものじゃない、消耗します。僕の奥さんもたまにこうなるし、逆に僕がなる時もある。そんな自分に気まずくなりますが、もっとエスカレートした場合を考えるとゾッとします。
また普段は、「これ片ずけて」「オッケー」で済むのにムシの居所が悪いと「これ片ずけて」に「うるさいなあ」と返してしまう。「うるさいなあ」が「うるせえなあ」だったらより悪意がある。

言葉は思っている事を上手く言えなかったり、逆に思ってもいないことを言ってしまうという、便利だけど扱いにくい道具なのです。相手が言われたくないからそれを言いたくなるというのもある。
そして言葉が段々分からなくなって、つい、「わたしは本当は何を言いたいんだろう?」と考える。本当に言いたい事なんて相手の受け取り方で色々変わるのに、「本当」を探し始めて堂々巡りに陥ってしまう。
自分自身との会話は、ドツボにはまると病気になる事もある。だから、自分自身との関係が一番難しい。

自分との関係を含めて、人とどう付き合うかは、ほとんど言葉とどう付き合うかの問題です。だから何か心が疲れているなあと思ったら、それは言葉に、言葉の意味に疲れているのだと思います。
余談ですが、言葉の意味に敏感な人は、中身のない世間話やしょーもないバカ話が苦手ですね。言葉の意味が近過ぎて、無内容などうでもいい話が出来ないのです。

さてここが心のご飯、歌の出番です。歌の栄養は、いい言葉や正しい意味を作ってくれる訳ではありません。逆です。それは言葉から意味を剥がしてくれるのです。歌が直接に人間関係を修復してはくれませんが、言葉の行き過ぎた意味から僕達を遠ざけてくれます。
すごく端折って言えば、考えてもしょうがない事を考えなくてもいいようにしてくれるのです。つまり行き過ぎた言葉をリセットしてくれる。もし上手く行けば、それだけでなく僕達の未知の力を引き出してくれる。
栄養とは言え、いい歌・いい音楽というのは得体の知れないもの、不意に殴られる様なものです。そして、僕達はいつもより強く殴られる事を求めている。危ないなあ、笑。

歌は言葉に音程やリズム、抑揚を付けたものです。試しに、「あいうえお」に適当にメロディーを付けて歌ってみましょう。不思議なことに、「あいうえお」が「あいうえお」でなくなってしまいます。「あいうえお」を「あいうえお ♪」と書いても何か違うものになりますね。
これが歌の、心の栄養の具体的な現象です。

『瑠璃色の地球』の出だしの明菜さんの歌声を聴いた瞬間に僕たちは何処かに持って行かれてしまう。そこは言葉の意味が届かない遠い遠い所です。そしてファンの人皆んながよく知っているようにその場所は自分が知っていた所よりもっともっと遠くです。
心の疲れが取れるどころか、今まで出来なかった事ができるようになったりする所です。
気が付いたら、ニューヨークのコロナのストレスも何のその、僕はこんなに中森明菜についての文を書いている。ちょっと前までは想像もしていませんでした。これが中森明菜の歌です。だから自然と人々は彼女を<歌姫>と呼ぶようになったのだと思います。

人生色々あるけれど、歌の観客である僕たちは中森明菜の歌を聴けばいい。じゃあ歌う事が仕事の中森明菜本人は、人生色々ある時どうすればいいかと言えば、好きな歌手の歌を聴くのもいいですがやっぱり自分の歌を歌いそれを聴くのが一番のご飯です。
多分この事は本人が一番良く知っている。自分のご飯がすごーく美味しいのを!

YouTubeには、元々体が丈夫ではない明菜さんを気遣うコメントと、人生のアップダウンが激しい明菜さんの幸せを願うコメントがとても沢山あります。
美味しいものを一杯食べて体をゆっくりと休養させて体力とエネルギーが戻って来たらまた歌い始めればいいのです。
と、僕も皆んなと同じ様に考えていました。でもそれは逆なんじゃないかと最近は思い始めています。元気が出ないのは歌い足りないからなのではないか? 中森明菜は歌手です。歌ってなんぼです。歌って、その栄養で自分も元気になる、そういうサイクルが似合っている。ファンのために歌う、自分のためにもっと歌う。

別にコンサートやレコーディングだけが歌うことではないです。ひょっとしたら明菜さんは毎日自宅で、日課として1日1時間位、余計な事は何も考えずにただルーティーン的に自分が歌って来た歌を次から次へと歌っているかも知れない。そうだったらうれしい。
歌う事だけが歌を進化させ、歌う事だけが歌を新しくする。そして歌う事だけが歌う人を何処かへ<導いてくれる>と思います。

話はそれますが皆んな犬や猫が好きですよね。彼らは喋らないで可愛い顔でただワンワンと吠えたり、ミャーオーと鳴くだけです。それがいいんです、歌ですね。

以上、歌って歌って嫌になるくらい歌う栄養が、体も丈夫にするし仕事も人間関係も良好にするのだ、という「逆サイクル」がテーマのエッセイでした!

最後に、妄想の中森明菜ラテンカバーです。第3曲目は、Eliades Ochoaの『Ella sì va』(彼女は行く)です。
彼はライ・クーダーがキューバで出会ったミュージシャンと結成した『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』というバンドのメンバーです。同名の映画やCDで知っている人も多いかなと思います。
1999年に彼らがワールドツアーの一環でNYに来た時、僕はカーネギーホールの最後列の席で体を揺らしていたのでした。
ではこの曲を素晴らしいダンスと共にどうぞ。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。

 
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働く事と流行歌 ー中森明菜の『駅』を聴くー

アメリカ全体の感染者数で見るとコロナはまだまだ予断を許さない状況ですが、ここニューヨークはピークを過ぎて街には人が戻りつつあります。レストランはテイクアウトだけで、室内飲食はかなり先になりそうです。
似たような規模のニューヨークと東京を比べるには感染者ではなく、一定人口の死者数の割合で比べるのが一番合理的だと思うのですが、それだと僕の計算では東京はニューヨークの100分の1位の死者率です。

だから安心という事ではなく、高齢者、特にBCG接種を受けていない人や持病のある人は引き続き注意が必要ですね。普通のインフルエンザでは見られない特異な後遺症なども徐々に報告されていますし。

ところで僕が最初に竹内まりやが歌う『駅』をYouTubeで聴いたのは多分15、6年前だと思います。いい歌だけれど、竹内まりやにしては随分と歌謡曲に寄せているなあ、というのが第一印象でした。

最近ずっと中森明菜の曲をYouTubeで聴いていて、この『駅』という曲は中森明菜が竹内まりやに依頼して自身の5枚目のアルバム『CRIMSON』に収録されているのがオリジナルだという事を初めて知りました。竹内まりや版は提供曲のセルフカバーなんですね。

で中森明菜のオリジナル『駅』と竹内まりや版では同じ曲なのに全く違った印象を受けます。その理由は二人の歌い方もそうですが、編曲にもあると思いました。まりや版はマイナーの曲調をシンプルに押し出していますが、『CRIMSON』の明菜版はマイナー調を少し控えた上品な仕上がりになっています。
まりや版は盛り場の有線放送からガンガン流れて来る感じで、まさに流行歌のイメージです。一方明菜版はアルバム全体の印象からみてもニューミュージックとかポップスに近い印象です。僕的には明菜さんに竹内版のアレンジでもう一回歌って欲しいですね。

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竹内まりやは中森明菜から曲の依頼を受けて、中森の写真をテーブルに並べて曲のイメージを作り込んで行ったという事です。マイナー調の歌謡曲、これこそ中森明菜であり流行歌としての歌謡曲の王道です。

僕が20代から30代にかけて過ごした1970年から80年代の東京(日本)は様々な音楽ジャンルが混在していました。その中で、演歌、アイドルソング、歌謡曲などのいわゆる流行歌はラジオ、テレビ、レコードやCDの普及と共に人々の生活の一部になっていました。
言うまでもなく、その象徴が『スター誕生』とか『夜のヒットスタジオ』とかTBSの『ザ・ベストテン』というテレビ番組ですね。

じゃあどうして単なる歌があれほど日本の一般社会に浸透したかというと、それは僕を含めたくさんの、本当にたくさんの日本人が皆んな働いていたからです。流行歌は労働歌なのです。働く事と流行歌はコインの裏表です、僕の考えでは。

当時流行っていた歌をYouTubeで聴いていると、その頃僕が働いていた東京神田の看板屋の仕事場や出来上がった看板を取り付けるために武道館沿いの靖国通りをトヨタのトラックで走っていた光景が目に浮かんで来ます。ただその頃の僕はジャズとかテクノとかを好んで聴いていて、流行歌は過ぎて行く日常の背景のような音楽でした。けれど今思えばそれはボディブローのようにゆっくりと、でも確実に効いていたのでした。

当たり前ですが、音楽は商品です。そしてアイドルソングという流行歌はそれをより前面に打ち出しています。僕的には大変興味がある<握手券>というトンデモは音楽を大きくはみ出していますが、好き嫌いも全部含めてこれがアイドルのリアリティーだと思います。
だから、文化庁の芸能助成金からは遥か彼方にある音楽ジャンルです。歌番組のベストテンは売り上げのベストテンです。久米宏が「今週の第一位、中森明菜『飾りじゃないのよ涙は』、9637点!」は、「このレコード/CDは9637万円稼いで今週のトップです!」と叫んでいるのです、冗談ではなく。

つまり流行とは売れているということ、お金がたくさん動いている事です。流行歌は音楽を使ってお金儲けをする事なのです。もっと言えば、お金が一番大事で歌という音楽はそのお金儲けの手段なのです。
伝統芸能である民謡には文化庁から補助金が出るかも知れませんが、アイドルソングに補助金が出たなんて聞いた事がありません。

でも流行歌はそれでいいんです。と言うか、そうでなければならないのです。実際に補助金なんかなくてもガンガン稼げるし、もっと大事なのは、お金儲けという超俗っぽい営みが流行歌のエネルギーの秘密でもあるのです。言ってしまえば、聖なるスターは拝金という不浄な行為の中からしか生まれないのです。
スターの歌は、お金の性質を俗から聖へ変えてしまうのです。だから、流行歌に補助金が出ないのは逆に勲章です。

その歌手がお金儲けには全然興味はなくてただ音楽が好きで歌っているという場合でも同じだと僕は思います。もしその人がスターになったら、嫌でもお金が追って来るのです。世紀をまたいだ小室哲哉の一連の騒動はその極です。
歌手が慈善事業だったら絶対にスターは生まれません。お金は不思議です。お金が聖と俗を繋ぐのです。そして稼ぐ額は多ければ多いほどいい。みんな何気なく流行歌を聴いていますが、実は歌は恐ろしいんです。まだまだ語られていない事が山程あるのです。だからこそ、皆んな引き寄せられのですが。
ちなみに新潟の実家の都合で一時的に日本に帰国していた1996、19977年は小室ブームの真っただ中でした。もちろん見事にはまりました。いつか小室ブームについても書きたいですね。

日本人は皆んなお金を稼ぐために働いている、そのお金でアイドルやスターのレコードやCDを買います。すべてがデジタル化された今でもそれは同じ様に見えます。稼いだお金で買うものは、レコードやCDだけではありません。一番の使い道は当然、家賃や食費などです。
だから働いてお金を稼ぐのは生きて行くのにどうしても必要なのです、当たり前ですが。でも働く事は簡単ではないし、出来れば働かないで一生楽に生きて行きたいと思う事は誰にでもあると思います。そういう時に歌は娯楽として疲れた心と体を癒してくれます。

残業や休日出勤は断りにくいし、職場には嫌な上司や気の合わない同僚もいて大変です。でも働く事は自分の人生を<作る>ためのものでもあります。何かを作る事はしんどいけれど楽しい。だから歌は癒しだけでなく喜びでもあるのです。

芳村真理と井上順の『夜のヒットスタジオ』は1968年から1990年までの22年、黒柳徹子と久米宏(85年降板)の『ザ・ベストテン』は1978年から1989年まで11年間の放送でした。89、90年というバブルの失速期に時を同じくして昭和の二大歌謡番組が終了しました。この事は流行歌にとってかなり大きな出来事だと思います。だとしたら、コインのもう一方の働く事にも根本的な変化があったのではないでしょうか? それもあまり良くない変化が。

1986年にニューヨークに渡った後、たまに耳にする日本の歌(Jポップ)で気になった事が一つありました。それは「頑張ろう」という歌が多いなあという事でした。僕にとって歌は虚構の魅力、作り物の魅力なのですが、どう見ても「頑張ろう」というのは現実世界の中の出来事です。
でより困った事に、「頑張ろう」と歌っているのが「我慢する事を頑張ろう」に聞こえてしまうのでした。

僕はニューヨークのジャパニーズ・レストランで長くマネージャーをやっています。それは対オーナー、対従業員、対お客さんとの我慢の連続でそれが店を回すというマネージャーの仕事だとも思っています。
どんな仕事も我慢は付きものですが、僕がJポップから感じた我慢は、何か理不尽な事に耐える我慢です。残業してるのにその分払ってもらえないとか、自分の仕事じゃないのにやらなければいけないとか、大した事ないと言えばそうなんですけど、理不尽な事の我慢が何年も続くと知らない内にだんだん生きる元気を奪われてしまいます。

Jポップからこんな事を考えるのは、たまたネットで見た「サービス残業」という言葉からの連想だったり、単に日本を長く離れている僕の思い過ごしかも知れないですが、とにかくそれらの歌からは音楽の生命力が感じられないのでした。そこには流行歌のハッタリやいかがわしい生命力が全然ないのです。

竹内まりやの旦那さんである山下達郎が、中森明菜が歌う『駅』に批判的だったという話は有名ですが、彼がアレンジした竹内版の『駅』は、その類い稀な音楽スキルで歌謡曲の魅力の一つの下品さ(?!)に見事に生命力を吹き込んで昇華させた名品です。だから僕的には、明菜さんが歌う山下版のアレンジの『駅』を聴いてみたいのです。
で、残念ながら僕には、Jポップの頑張ろうソングにはこの下品な色気という生命力が殺菌されて全く見当たりませんでした。色気といえば、82年組の中森明菜のデビュー時のキャチフレーズは、「ちょっとエッチな美新人娘(ミルキーっこ)」でした。流行歌を象徴していますね!

昭和の時代、働く事はキツかったというか、働く事はいつでもどこでもキツイものです。でもまがりなりにも、そこには自分の生活や人生を<作る>という楽しさもあるはずです。
流行歌はそれと一緒に並走して来た。『夜のヒットスタジオ』や『ザ・ベストテン』が終了して、そういう働く事の側面も段々失われてしまったのでしょうか?
これを一言で言えば、働く事で自分の人生を作る事が段々難しくなってしまったという事ではないでしょうか? 絶対に誰かが悪いし何かが原因なはずなのに全て掴みどころがなくあやふやなうちに、自分の人生を作るはずの富がどこか別の所にどんどん集中してしまっている。もうこれは流行歌では癒せない、そして歌を喜べない。近頃の有名人の不倫叩きに象徴される<呪いの行為>は、大きくなり過ぎた行き場のない何かの現れのような気がします。

今回は竹内まりや作詞作曲の『駅』の楽曲分析と明菜さんの歌唱分析をやろうと思っていたのですが、なぜかこんな風になってしまいました。気分を変えるために、妄想の中森明菜ラテンカバーの第二曲目には思いっきり情熱的でロマンティックな曲を選んでみました。Jesse Cookというギタリストの『Havana』です。

松岡直也さんの作曲によるラテン調の『ミ・アモーレ』でレコード大賞を獲った明菜さんなら素晴らしい歌唱を披露してくれる事は請け合いですが、残念なことにインスト曲なのです。売野雅勇さんか松本隆さん、松任谷由実さんや中島みゆきさんに詩を頼んでダメだったらその時は僕が書きます。
ラテン版、石川さゆりの『天城越え』のような、狂おしい曲調からしたら自然に不倫の歌になりそうですが、別に不倫をあおっている訳ではないです、でも解釈はご自由に。では、ENJOY!

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中森明菜、山口百恵の『秋桜』を歌う。

僕は1986年に渡米してそれ以来30年以上ニューヨークに住んでいます。そう、コロナでまた有名になってしまいました。僕は喘息の持病もあり歳も歳なので感染にはけっこう気をつけて何とか元気に過ごしています。
ようやくこの街も少しずつ落ち着いてきましたが3、4ヶ月前は本当にひどい状況でした。ニューヨークに来る前の15年位は東京で働いていました。新宿のレストランと神田の看板屋で。

『秋桜』(コスモス)は1977年(昭和52年)にリリースされた山口百恵の19枚目のシングルで、よく知られてるように作詞と作曲はさだまさしです。当時僕は24、5才でリアルタイムで聴いていました。仕事場のラジオやテレビの歌番組で。「夜のヒットスタジオ」とか「ザ・ベストテン」はホントよく見ていました。
僕はすごい中森明菜ファンではなかったけれど、今思えばカセット(!?)に、ファースト・シングルの『スローモーション』とシングル3曲目の『セカンド・ラブ』が入っていたのは今も覚えています。まあ、ロック系ツッパリ系もいいですがバラード系がより好きなのは今も同じです。

普通どんなに上手い歌手でも、他の歌手の歌をカバーをするとほんの少しの所でオリジナルには負けてしまいます。オリジナルは時間をかけて、その歌手の色に染め上がった歌だから、最初から勝ち目はないのは確かです。もちろん歌は勝ち負けじゃないですが。

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で中森明菜が歌う『秋桜』ですが、すごいです。カバーではなくまるで自分の曲のようです。声は全然大きくないのに、ほとんど持って行かれてしまいます。聴いた後の余韻がすごいので、繰り返して聴けないのが欠点(?)でしょうか。
動画のコメントを見て初めて気付きましたが、ピアス、ネックレス、指輪、ブレスレットとか身に付けてないんですね、そしてシンプルな薄い紫色のワンピースに素っ気無いステージ、逆に歌だけを聴いてもらうという気迫を感じます。こうやってこの文を書きながら「中森明菜」とタイプしてその字面を見るとそれだけで、また持って行かれそうです。ホント何なんでしょう、これは。

映画で俳優がすごい演技だという時、その映画自体も必ずすごいですね。演技だけすごいという映画は無いと思います。歌も同じで中森明菜の歌唱だけがすごいなんてことはあり得ないです。中森明菜の『秋桜』がすごいのは、さだまさしの『秋桜』がすごいからで、山口百恵の『秋桜』がやっぱりすごいからです。

英語のコメントの中に「SAD」という単語が結構ありますね。確かに彼女の歌い方のキーワードは「悲しみ」だと思います。ですが幸せの絶頂にいる人でも悲しい歌を上手に歌えるように、この悲しさはリアリズムではありません。悲しさを表現して人を悲しくさせている訳ではない。
この中森明菜版、『秋桜』を聴いて涙を流す人はリアルな世界の涙を流しているのではない。普通は涙なんか流したくないですよね、それは出来れば避けたかった悲しいことが起こって流れるものだから。でも、悲しさという意味では虚構だけど悲しいという感情を持っているという意味では現実です。

明菜さんの『秋桜』に僕たちは引き込まれる。歌を楽しみたいと思っていたのに自分も悲しくなって泣いてしまう。歌は「楽しさ」や「幸せ」さえも「悲しさ」で表現出来る。その度合が明菜さんはすごいのです。
じゃあ、歌を聴いてどうして泣いたりするのかと言ったら、それは中森明菜の『秋桜』が皆んなが持ってる「悲しみと」いう感情を介して僕たちをどこかへ連れて行ってくれたり何かを届けてくれるからなのです、僕の考えでは。

もしそうだとしたら、歌手たち、そして中森明菜は「こことどこか」や「無いものと有るもの」を繋ぐことを仕事にしている「メディア=媒体」だと言えます。ちなみに、「この世とあの世」を繋ぐのは巫女さんです。だから、誤解を恐れずに言えば「悲しみ」は彼女の大事な仕事道具の一つです。大工さんのカンナです、それも飛びきりよく切れる。
そして、たまに自分の指を切ってしまうこともある。と言うよりいつも傷を作ってしまう。それを敏感に察した痛々しいコメントもとても多いですね。ファンの人もそれを良く分かっています。でも、でもです、どんなに悲しそうに歌っても、やっぱり歌を歌うことは楽しいのです。だからそれは歌い継がれる。

で、中森明菜という歌手はこのメディアとしての才能が半端ないのです。なぜそうなのかと言うと明菜さんが好きだった歌手達もそうだったという余りにも当たり前の話しです。山口百恵はホント凄かった。『山口百恵は菩薩である』(平岡正明著、1983年)というタイトルの本が出た位ですから。だから僕達は中森明菜を聴いていながら同時に山口百恵も聴いているし、さだまさしも聴いている。カバー曲を歌うとはそういう事ですね。

歌手は歌を歌うということ自体をリレーしている、次の歌の作り手と歌い手へ。まさにメディアそのものですね。後で知ったのですが明菜さんは沢山のカバーアルバムをリリースしていますね。それもカバーアルバムブームの先駆けとしてかなりの枚数を。自身のメディア的な資質を無意識的に感知していたのでしょうか?
それにしても、歌謡曲、演歌そしてフォークソングと様々なジャンルの曲をカバーして歌い、セールス面でもかなりの成功を収めているというのは、今これを書いている僕にとって嬉しい驚きと発見です。
プロとしてカバーを歌うにはオリジナルとは別の難しさがあると思いますが、オリジナルと一番違うのは、自然と一人の歌が好きな人に戻れるということにあるのではないでしょうか。

明菜さんをYouTubeで見ていると、テレビでもう一度観たいというコメントが結構ありますね。ブラウン管を隔て、一般庶民とスターを繋ぐ中森明菜というメディアですね。もちろん生のコンサートもいいですが、テレビの虚構性にも惹かれる僕です。
仕事帰りのラーメン屋のカウンター越しに中森明菜の歌に見入るという構図です。どうしてこのテレビの虚構性に惹かれるかは良く分からないですが、もしこの店の主人が明菜さんの曲の途中でナイターの巨人阪神戦にチャンネルを変えたとしたら、巨人ファンの僕でもイラッとしますね、確実に。

僕が1986年にニューヨークに来たのは、ここでアーティストになって有名になってお金を稼ぐことでした。で当然それを諦めることになりアートのことはすっかり忘れて、生活のために働き続けて気がついたら還暦を過ぎていたのでした。

で何十年のブランクの後、また作品を作ったり文を書くようなった。アート好きだったけどほんとバカだった僕は一周まわってもう一度同じ場所に立っています。あまりにも時間が経ってしまいましたが。僕はいつも昔の僕と未来の僕を繋いでいる。僕は僕というメディアです、僕自身のための。

中森明菜の歌は、中森明菜の人生のその時々の出来事と切り離すことは出来ません。人は皆んな、そして中森明菜も、17才でも25才でも54才でも60才でもこの世に生まれてくることは出来ない。17才が25才に繋がり54才が60才に繋がって行く。
それは結局人生に幸、不幸はあるけれど無駄なことは何もないということです。僕達は人生のいいとこ取りは出来ない。それは自分さえも自分のものではないという運命の過酷さを受け入れることです、なんちゃって。。。

運命は過酷だけれど、それこそ「運」という強い味方もあります。明菜さんの今の望みを、僕は知ることは出来ないですが。とにかく元気で平穏なことが何よりだと思います。

では最後に、僕の大好きなサンバ(パゴーヂ)の曲を紹介して終わりにしたいと思います。僕の妄想の中の明菜さんのラテンカバーアルバムの一曲目です。
歌っているのは「サンバの女王」ベッチ・カルヴァーリョさん、曲のタイトルは『豆の袋』です。日本の歌姫はブラジルのサンバの女王の『豆の袋』をどう歌いこなすのか。まずは歌のタイトルに負けないように?! 何か妄想が止まりそうもありません(笑)。
最後まで読んで頂いてありがとうございました。

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