「お金と歌」 ・・・ 中森明菜が歌う、中島みゆきの『悪女』を聴きながら。

この『悪女』は2009年7月に発売された『フォークソング2〜歌姫哀翔歌』に収録されています。ちょうど11年前ですね。本家、中島みゆきの歌唱もいいですがこの『悪女』の中森明菜の歌唱はスゴイですね。
まず背もたれの付いた椅子を前後逆にしてそれにまたがる様にして座っている。もちろん両脚は開かれている。全盛期の大ホール公演ではない小さいスペースである事を逆手に取った見事な姿だと思います。

もちろん中島みゆきの書いた曲もスゴイです。マリコの部屋で〜♪、の出だしがもう何だか分かりません。いきなり固有名詞です。ミュージシャンはこういう技をもっと盗んだほうがいい。僕はまだ、山田が~♪、で始まる曲を聴いたことがありません。
また当時、坂本龍一がラジオから流れて来る『悪女』のメロディーに思わず足を止めたという噂が本当のように語られていました。僕は本当だと思います。歌詞もメロディーも何かを秘めています。

コメントにもありますが、生ギターのストロークがメインのアレンジもすごくいい。そして2番に入ってからの手拍子がとても気持ちがいいです。スタッフと中森明菜の楽曲へのこだわりが伝わって来ます。

中森明菜 悪女2 png

で、中森明菜の歌唱ですが、何かぶっきら棒で突き放す感じがあってとてもいい。ボブ・ディランみたいにも聴こえる。その訳は歌詞の語尾にトレード・マークのビブラートがあんまりかかってないからなんですね。音符の並びがそういう作りなのでしょうか、それとも意識的にそう歌っているのか。
とにかくビブラートなしも中々いいです。今までビブラートで魅せていた曲をビブラートを控えた歌い方で聴いてみたいです。

前回のエントリーにも書きましたが、歌は心の栄養とは言え、いい歌というのは得体の知れないもの、不意に殴られる様なものです。でも、僕達はいつもより強く殴られる事を求めている、マゾっけたっぷりなのです。自分は何もしないで、とにかく極力受け身になって歌に殴られたい。
明菜ちゃんが明菜さんになり、ダウンタウンの番組で松本人志は彼女を「明菜様」と呼んでいました。そしてとうとう歌姫になった。まさに、女王様への道をまっしぐらです。

中森明菜のファン思いの姿勢は周囲の誰もが認めるところだと思います。
そんな事は出来ないのに、自分が歌うことを楽しめない位、ファン全員の願いを叶えたいと思ってしまう。NHKの『SONGS』で彼女は自分をそのように語っていました。ファン一人一人のためにいい歌を歌いたという願望がすごく強いです。それは僕達のいい歌を聴きたい願望と対になっていて、歌でボコボコにやられたい僕達に手を貸して助けてくれる存在です。僕達の女王様は優しいのです。

女王様は優しいけれどそれをタダではやってくれません。タダに見えるテレビやYouTubeは広告です。どうして歌は純粋にタダではないのでしょう? 歌手も仕事だから、フムフム。資本主義のせい、確かに。

今の世の中お金が無いと何もやって行けない様になっている。何よりもご飯が食べられない、服も買えないし家にも住めない。僕達はお金のために生きている様なものです。お金がすべての悪の根源の様に考えてもおかしくないけれど、それはお金の片側の姿に過ぎない。お金は働いて稼ぎます。で稼いだお金は使わなければしょうがない。僕の考えでは、お金を稼ぐのは大変だけれどそれを使うという楽しみもあるのです。

昆虫も動物も生きて行くために日々動き回っている、植物さえも。それは彼らの労働です。僕達の場合この労働にお金というものが絡んで来ますが、生きるために動き回る事に変わりはないです。動物達は動き回る事が直接生きる事に繋がりますが、人間は動き回る事がすぐにはご飯にならない。面倒な事に、お金を持ってラーメン屋さんに行かなければならない。
まるでお金を払う事で働いた事を確かめているみたいです。確かにお金は人生を縛ってはいますがそれだけではない。労働がキツイだけのものではないのと同じです。労働で稼いだお金で自分の人生を作れるなら、お金を使う楽しさが人生の楽しみに加わります。

それはどういう事かというと、稼いだお金で何かを買って自分の人生を作っている時、結局僕達は昆虫や動物と同じ事をしているのです。お金が中間に入っていますがこの時労働とお金は同じものになっています。
つまりこの時僕達は昆虫です。労働はキツイけれど自分の人生のためなら、それを呪ったりはしないでしょう。むしろ楽しいと感じる事さえあるかも知れない。
お金が色々な不幸の元になる事もあれば、当然お金を使うのが楽しい時もあるのだと思います。

お金が諸悪の根源に感じられるのは、お金の量が問題になっている時です。お金が足りないと自分の人生を作るどころの話ではないですから。
そうならないように余裕があったら、僕達は貯金をしたり投資をしたりしています。つまりお金には使う楽しみと同時に増やす楽しみもあります。

ただお金を増やす楽しみは、万が一のためとか老後のためという使う事を想定した場合だけではありません。お金がお金を生んでただ増えて行くのが楽しいという場合もあります。
言うまでもなくこれはとても厄介な事です。お金をそのお金を増やすためだけに使う事が諸悪の根源の始まりになってしまうのです。なぜならこの行為は誰の人生も作っていないからです。

そういう訳でもし歌がタダだったら、僕達はCDを買う楽しみやコンサートのチケットを買う楽しみを味わえない。もっとストレートに言えばお金を使う楽しみを味わえない。それは労働の楽しみを味わえない事と一緒です。お金は僕達を時には苦しめますが、それだけではない。お金は労働と歌を繋いでくれるのです。
という事はひょっとしたら、僕達は歌に殴られるために働いているのでしょうか?! そうとも言えるでしょう、笑。

CDやコンサートのチケットを買うのは財布が痛い。でもその痛さは労働の楽しさの証しでもあるのです。財布の痛みも喜びに変わるのです。だから、僕達にものすごく買いたいと思わせるCDをいつもリリースして「買ってね」と耳許でささやく明菜様はどこまでも僕達に優しい存在なのです。

このところ僕は時間があればYouTubeの明菜さんの歌を古いのから新しいのまでランダムに聴きまくっています。で、彼女が出したシングルはもちろん、出したアルバムのほとんどの曲をYouTubeで聴くことが出来るのにはホントにビックリです。
その幅はデビューの1982年から2017年までのちょうど35年間です。この人生の半分位の間、彼女には公私に渡って色々な事があった訳ですが、その年代ごとに声も変わり歌い方も変わって行きました。

もちろんその時々で表現したいテーマも変化しているのも見て取れます。でも気付いたのですが全く変わっていないものがあったのでした。
それはどの歌も非常に丁寧に歌っているという事です。一つ一つの歌を愛おしむ様に歌っていると言ってもいいです。いや、一つ一つの歌をではなく一音一音をですね。
僕にはそれが歳を重ねる程に強くなっているように感じられます。何て言うか、曲がいいとか歌詞がいいとか編曲がいいとかという次元ではなくて、その変わらない態度に僕はもう一度動かされたのです。これは忘れない内に書いておきたいと思います。機が来たらこの事をもっと掘り下げてみたいです。

ここNYではニュースでコロナのワクチンの進み具合を聞く機会が増えて来ました。早ければ年明け早々でしょうか? もう旅行したくてしょうがないないのですが。

さて中森明菜ラテンカバーシリーズの第4弾目は、キューバのレジェンド、Los Van Vanの登場です。曲は『Descarga Los Van Van』のインストルメンタル・バージョンで、あまりヴォーカルはありませんが、サムエル・フォルメルのドラムとティンバル(Princeと一緒にやっていたSheila Eが叩いていたやつです)が超聴きどころです。うねりまくっています。
グルーヴに身を任せ身体を揺らしながら楽しそうに歌う明菜さんが目に浮かんで来ます。それはLos Van Vanの演奏という波と戯れる明菜さんというサーファーのイメージですね。

今回も最後まで読んでいただいてありがとうございました!

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